モノローグを書き出して(ログして)

いろいろな人がいろいろな記事を書きます

廃墟は燃えているか

(ライター名:橿尾樫)

※この記事は多少の主観を含んでいます。

 

燃えてるからこんな記事書いてるわけです。

 

 いきなりなんだと思われるのもなんなので少し。私は廃墟に行くのが趣味なのですが、最近廃墟界隈全体に嫌な潮流が来ております。正直ヤバいです。

 日々更新されていくネットニュースの中で廃墟の事を扱った記事のうち、最近のものをぱっと思い返してみましょう。

 まず、鬼怒川の廃ホテルに侵入した大学生が逮捕されたニュースはご存じの方もいるかと思います。

 これ以降

 ・岡山の廃ホテルに侵入した男女が逮捕

 ・福岡県の廃スケート場に侵入した男が逮捕

 ・群馬県の廃ホテルから出火

    ・三重県の廃ホテルから出火

 ・愛知県の廃ホテルから出火

    ・上とは別件の愛知県の廃ホテルから出火

 

 散々です。

 上記の他に廃墟の解体例も多く、流れとして「廃墟解体した上での観光開発への補助金」なんて話もありましたね。はぁ。

 

 いや、廃墟の解体はまだいいんです。悲しいですが。

 今回の記事で触れたいのは箇条書きした項目、つまり逮捕者が顕在化していることや出火が取り沙汰されることが多くなってきたことについてです。

 もともと廃墟に入ること自体法律的に(かなりアウト寄りの)際どいところがあり、ゆえに廃墟の、例えば主だって写真や動画を SNS にあげる人たちは極力自分の姿を表に出さないといった所謂保身を行ってきました。

 ところが最近、YouTube などに集団で、顔出しをして廃墟に赴く動画を投稿する方々がやたら散見されるようになりました。主に心霊系 YouTuber と括られる方々です。もちろん彼らの目的は心霊スポットですから、廃墟だけでなくトンネルやダムなんかも訪問の対象になっていますがここでは廃墟の事のみを語りましょう。

 まず顔出しについては単純に逮捕される、或いは特定されるリスクが跳ね上がることに繋がります。まぁそんなもんは当人が損をするだけなのでどうでもいいっちゃどうでもいいのですが、問題は動画として投稿されていること、誰の目にも届く環境にあるというところです。

 例えば「廃墟に 3 人で行ってワイワイしながらカメラを回す」という動画が公開されたとします。これを見た人はこう思うかもしれません。

「廃墟って遊び場所として楽しそう!」と。

そういう人が動画の彼らに倣って廃墟に行き、どんなことをして遊ぶでしょう。

普通に中を探検するだけ、先人と同じように動画を撮る、落書きを施す、物品を破壊する、若しくは火を使った遊びをする――

 上記の 5 つはそれぞれに危険性を孕んでいます。探検するだけにしたって廃墟は手入れのされていないゆえに脆くなって怪我や死に繋がる可能性があり、後ろ 3 つに関しては罪を上乗せすることになります。

 さて。以上の話は例えば、という言葉で始まった仮定の話です。しかし全てが空想の産物かといえばそうではなく、実際に起きていることを多少変更して話した、いわゆる“事実を基に作成されています”というものです。

 

 ここで体験談をひとつ挟みます。岐阜県に見事な襖絵が有名な廃墟がありました。その見事さゆえにそれこそ多くの人が訪れましたが、これを不安視したのが廃墟の持ち主であるSさん。Sさんは何度かこの廃墟に足を運び、様子を見ていたそうですがある日見つけてしまった襖絵の前に煙草の吸殻。これが燃えてしまってはかないませんから、SさんはTwitterにてボランティアを募集し襖絵の保護に乗り出しました。建物から襖を外し、しかるべき場所にて展示するといったものです。この計画は無事に遂行され、ボランティアに参加した各人がもう襖絵はないよ、と故意の魅力の低下を発信しました。(その後も落書きなどは増えているようですが)

 火災の原因によく煙草の不始末など挙げられますが、廃墟にしても、いえ、

 “廃墟だから余計に”というべきでしょうか。そういった分別さえつかない人たちが最近になって廃墟を訪れる人の割合として増えてきています。

 

 ここまで書いておいてなんですが、この記事の主題はそんな人たちを徹底的にこき下ろすことにはなく、ましてやどの YouTube チャンネルが~などと批判することにもありません。

 ただ、いち廃墟に行くのを楽しみにしている人間が「廃墟に行く」という行為自体に抑圧がかかりそうな今後を不安視するだけのものです。私も廃墟に入っている以上、少なくとも誰かの迷惑になっている可能性もあり騒がしい彼らを批判する権利はないのですから。

 それなりに軽蔑はしてますけど。

(さらに言ってしまえば迷惑に思ってもいます。貉同士でも区別はつけたいので)

 

 言うまでもなく、現代は一部の発展性を残しているとはいえユビキタス社会が形成され

ています。廃墟に関しても同じく、調べようと思ったらたいていの廃墟はすぐに名前と所在地がヒットします。言い換えるならば廃墟に行くという行為のハードルが大変に下がっているのです。では、この下がったハードルを憂慮したところでどうなるのでしょうか。

 社会、或いは時代の潮流は不可逆的なものです。ネット社会はどんどん発展していき、一般人が触れることのできる情報の範囲も拡がっていくことでしょう。廃墟に向けた人の流入は大きく減ることはないのだと考えると、結局は「これも時代だ」という言葉に責任を押し付け諦めるのがいい気さえしてきます。

 ちなみに、このような語り口をしてはいますが私も情報に胡坐をかいている人間であることは記しておきます。

 

 替えの利かない廃墟――妙な言い方ですが、例えばバブル期に建てられた建造物の廃墟なんかは規模的に現代での同等の建築が行われにくいというニュアンスで――が解体され、反面廃墟に赴く人が多くなっている今、なるべく私は私個人として廃墟に対してなるべく傍観者でいられるように廃墟を楽しんでいきたいと改めての考えを以ってこの記事の締めとさせていただきます。

 

 それでは。